山本住職のシルクロード体験記
第4章 (第2部)
敦煌莫高窟 Mogao Caves
(現地2005年6月7日)

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甘粛省敦煌(トンコウ)DUNHUANG
莫高窟 Mogao Caves
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  唐の時代にさかのぼる石碑に、「西暦366年に樂ソン(にんべんの旧字の「尊」)【ラクソン】という修行僧がこのそばへ来たときに、突然黄金の光が見え、まるで千仏がいるようであった。そこで、この地に一龕(ガン=岩壁に彫り込んだ室)を造営した。」と記してあります。
  それから1000年の元の時代まで、石窟は造営し続けられ、その間の民族、文化、思想を伝える宝庫となりました。しかし、時代の流れで東西交易は陸路から海路へ変わり、敦煌を含むシルクロードの重要度が下がり、忘れ去られてしまいました。

  その後900年、中国道教の道士 王 圓ロク(竹冠の「録」)【オウ エンロク】が後に「蔵経洞」と知られるようになった石窟を、1900年6月22日に偶然発見しました。発見された「敦煌文書(もんじょ)」の中には、4世紀の386年の経典から11世紀の1002年の文書までが含まれており、そのためこの隠された石窟が1002年に封印されたことと推測されている。道士の王にとっては、これらの古文書は大した価値もなかったので、この発見の話を聞きつけた世界の探検隊が1900〜1912年の間にこの地へ押しかけ、王氏より大量の文書を入手し、それらはイギリス、フランス、ロシア、日本などの国へ離散してしまった。

  出土した数は5万点といわれ、そのうち4万点は国外へ、1万点のみ中国国内に残っているといわれます。95%が経典であり、西暦868年印刷の金剛経も出土しています。残りの5%は、封印される直前の権利書、契約書など庶民生活で大切であった文書でした。

「全てはここから始まった」
敦煌莫高窟 第16窟と隠されていた第17窟
  第16窟は奥行き15メートルほどあり、奥中央の仏壇には釈尊の両側に阿難と迦葉並びに菩薩が安置されています。造営時期は晩唐。写真でも見られますように、奥の仏壇までの壁内に第17窟があります。この石窟は元々唐の権力者で高僧、洪辨【コウベン】の影窟(記念窟)として造られました。面積は一坪くらい、入り口から正面に洪辨の塑像(そぞう)が安置してあります。この塑像は写実像であり、背中に穴があります。そこに絹にくるんだ遺骨が納められていました。鉄格子の扉越しでしか見られませんが、像の後ろの壁画左側に杖を持った侍女右側にもう一人、そして背後の木の枝に現代でも女性が持ち歩くハンドバッグに似た頭陀袋が掛かっている。
  この狭い室内になぜ5万点ほどの敦煌文書が隠されていたとは考えが及ばない。敵の侵略という説が最も有力ですが、この17号窟の外壁は目眩ましの為、西夏の時代に10cmの塗り壁をし固められ、現在表面に見られる絵が描かれています。研究員によると、この表面の層を少しづつ剥がせば、本来の第17窟の絵を見ることができるとのことです。

秘密の「蔵経窟」発見後、経典類が運び出された当時の写真

(この写真は複数のネットサイトで使われており、著作権は表示されておりません)
洪辨の写実塑像。この角度からは見られませんが、
背中に穴があり、絹で包まれた遺骨が納められていました。
次回をお楽しみに
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